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アメリカでの仕事の話(その3)

続編です。

お客さんに対するサービスがアメリカでは行き届かない、自分自身にも満足できないことが続き、 妥協せざるを得ないことが正直ありました。
これはお客さんに対して非常に申し訳ないことです。

理由は色々あります。
日本とのシステムが違うことは当然ですが、やはり「人」の問題が大きかったです。
私の場合がたまたまそういう状態になったかもしれませんが、違うなと思った大きな点は「スピード」と「感覚」です。
日本の職人さんとアメリカの職人さんとでは明らかに「スピード」が違うと思ったことが多々ありました。
性質の違いはあれど、どうしても日本の感覚で時間配分や作業の進行を組み立ててしまう私は、アメリカの ペースに苛立つことがかなりありました。

3年目のフロリダ、オーランドでしたか。
頼んであるはずの映像を流す際に使うスピーカーが来ていないので連絡をとり、 映像音響機器の業者さんがブースに現れ、「車にあるからすぐに持ってくる」と言って取りに行ったまではいいですが、 何時間経っても戻ってきません。
しびれを切らして会場内を探し、見つけてプッシュすると、笑顔で「わかった」と言い消えていくのです。
そしてまた現れない。
私のつたない英語で通じていないのかなと、弊社依頼の日本人スタッフに電話で 確認してもらうと、「もう会場を離れた、今日は終わり」と…。
明日オープンですよ。日本では考えられないですよ。 仕方なく、「明朝の9時までに必ず持ってきてくれ」と念を押して頼んでもらい、私はお客さんに頭を下げるしか…。
弊社依頼の業者さんに聞くと「アメリカではそんな感じだよ」と流すのです。
心配で落ち着かないままオープンの朝を 向かえ、ブースで待ち構えていると、その業者さんが歩いてくるのが見え、「よかった!」と思った瞬間、 手に持っているのはなんとパソコン用の小さいスピーカーなのです。
笑顔で「持ってきたよ!」みたいなことを 言う彼に私は日本語で「こんなの使えねーよ!」思わず激怒しました。
しかし、オープンが迫っています。
お客さんにまたまた頭を下げ、「これで試してみよう」ということになりましたが、思ったとおり、音は割れまくりです。
その瞬間「チェーーーーンジ!」×5回くらい言いましたか。
まともなスピーカーに変わったのは会期2日目の昼でした。
それまでは音声なしで映像のみの状態。
もちろん、弊社依頼の業者さんにはクレームを言いましたが、 「あいつは初めてだから」とか終いには「アメリカだから」と言い訳ばかりです。
スピーカー1つでこんなに苦労するとは…。

「スピード」もそうですが、感覚の問題でしょうね。
その時思いましたが、「弊社依頼の業者さんも、 日本人だけどアメリカが長いのでこちらの感覚になってしまってるな」と。
「ここはアメリカ」ということは 分かっていても、あまりの内容にあきれる場面が多々ありました。
でも、現場は待ってくれないのは日本もアメリカも同じです。お客さんには申し訳けない限りです。
あくまで私が遭遇したケースの場合ですが、アメリカへ行く度に日本の職人さん、業者さんと比べてしまう 自分がいました。
「日本の職人さん、業者さんは素晴らしい!いや普通?」だからいいサービスができるんだと。

その後、改善に向け弊社依頼の業者さんと議論を重ねました。
「ここはアメリカ」それは理解する。しかし、 土地、国柄が関係ないことまで「ここはアメリカ」で済まされるのは納得できない。
トラブルが発生しても、 すぐに「できない」ではなく、あらゆる方法、手段を考えよう。
そうしないと自分が来ている意味もないし、 なにより、お客さんに対して申し訳ない。
この状態だと弊社で受けてはいけない。
自分がどこにいても、それに準じて自分が曲げてはいけないと。
パフォーマンスができないなら弊社が受けるべきではないと。
お客さんにこの話をすると、「私に頑張って続けてほしい」というありがたい言葉をいただきました。
その言葉を励みにより質を上げていこうと思い、2006年のオーランド開催で、そのお客さんの社長さんに 「渾身のできですね」と言われたこと、今でも耳に焼き付いています。
その舞台裏には一つの素晴らしい出会いが ありました。

その話は次回に話します。少々、熱苦しくなってしまいましたね。

アメリカでの仕事の話(その2)

今日の東京は朝から晴れ。気温も上がってきましたね。

前回は「初ベガス」でお腹壊した話でもちきりになってしまいましたね。
今回はお仕事の話にしましょう。

知ってる方もいると思いますが、日本とアメリカの展示会の仕組みは大きく違います。
今回はその仕組みの違いをお話します。
日本でいう事務局かな?向こうではユニオンといって展示会全体の運営を仕切ってる組織があり、数社で独占状態らいしのです。
日本では、出展製品やブースの施工部材を自社で搬入するのは当たり前ですが、アメリカではそうはいきません。
まず、会場の巨大倉庫に出展製品やブースの施工部材を送り、ユニオン指定の業者さんが各ブースに配るのです。しかも有償で。 自分達で会場内を台車でを転がして搬入したりはできません。
なので、会場内は荷台がある小型のリフトというんでしょうか、その車やフォークリフトがいたるところを縦横無尽に走っています。
もう1点、大きな違いがあります。
これも日本では施工の際、普段から付き合いのある大工さん、電気屋さんなどの 各種業者さんに施工を依頼して作業しますが、アメリカでは施工の担当会社(弊社依頼の)からユニオンに所属している職人さん (Labor/レーバー)を時給で契約し、ユニオン指定の職人さんと作業しなければならないのです。
確かに全米に会場があれば、会社のある拠点都市から全職人さんが移動するのもコストがかかりますが、 なじみの職人さんとやる日本とは違い、現地の、しかも初対面の職人さんとでは当たりはずれがあっても当然ですし不安ですよね。
それを当然のように行ってるのはアメリカの大らかな点でなのでしょうか。
もし、自分達(ユニオンから許可を得ていない人)で作業しているところが見つかると、厳重なペナルティがあり、 出入り禁止になる場合もあると聞きました。
もちろん私も手伝うこともできません。たまにサインとか貼ってましたけど…。
とにかく組織の力が強く、やりずらい点が多々あるのです。

このお客さんが出展する展示会は「infocomm/インフォコム」という映像機器の展示会で、毎年全米の都市を周っています。
主にラスベガス、フロリダ州オーランド、アトランタ、アナハイムを周ります。
10年近くで2周はしました。中でもラスベガスは3回。
毎回場所も違し弊社が依頼している施工会社はロスにありますから、そこから空輸、陸送で会場まで部材を送ります。
日本から出力したポスターや小物をハンドキャリーで持っていく場合も多々ありました。
ロスでの積み残し、手配漏れがあった場合は現地調達しか手段はありません。
過去にブース内の商談コーナーに設置する冷蔵庫を忘れてしまい、現地のホームセンターで購入したこともありました。
アメリカには日本のようにレンタル会社が会場に常駐していて追加発注できるシステムはないのです。

フロリダで開催する場合は1週間かけての陸送です。
ドライバーが家族を乗せて走るそうで、なんともアメリカらしいですよね。
フロリダが会場の年、日本からワシントン経由の到着便が遅れて、空港で5時間待たされ、日本からの移動時間が合計24時間かかった こともありましたが。
とにかくフロリダは遠かった…。この話はまたすることにしましょう。
話を戻しますが、ではお客さんの展示製品をどうやって搬入していたか…。
毎年恒例になってましたが、お客さんも会場倉庫に製品を送るのは心配とのことで、お客さんの宿泊ホテルに日本から一旦送り、車でピックアップし、 会場へ搬入します。
まぁ、言葉でいうとなんてことない作業ですが、先に話した現場の事情が違います。
まず、会場の駐車場が巨大で車を止めた場所から巨大な会場内を歩き、巨大な展示ホール内、ブースまでの長旅を少人数で 何回も往復もするのです。出展社の担当者さん、施工会社のお兄ちゃん、私で…。
日本からのダンボールは10数個、配布用のカタログが入った箱なんかは腕が千切れそうになります。
しかも、40度以上の気温の中、大粒の汗を流しながらやります。
終了後は脱水状態。でもこの後のペプシがうまい!(←アメリカではなぜかペプシがうまく感じる)
その他にも、日本ではスムーズにいくこともアメリカではままにならないことが多々ありました。
アメリカの仕組みに対して、どうも日本との違いに納得がいかない部分もありましたが、 「ここはアメリカなんだ」と思うしかなく、限られた時間内にどうするか、なんでも手の届く日本とは違い、 どう現場を進めるかという考え方になりました。
しかし反面、なかなかお客さんに喜んでもられるような行き届いた サービスができないことに苛立ちを感じるようにもなっていったのです。
日本ならこうなのに…日本ならできるのに…と。

次回へ。アメリカでの話しは長くなりますよ。

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アメリカでの仕事の話(その1)

雨、よく降りますね。

この時期は毎年アメリカに行っててうっとうしいくらいの日差で日焼けして帰国するんですが、今年は2000年から続けて出展されていたお客さんが取りやめになり残念です。
今回は弊社でお世話になっているお客さんの話です。

お客さんシリーズはこれからも多くなると思います。その第一弾です。

ちょうどこの時期ですので、冒頭にも話したアメリカのお仕事をいただいていた会社さんの話をします。
これ、長くなるんですよね。色々なことがあり、色々な人と出会い、かなり濃い仕事だったので。
元々、私の父親が「行くならアメリカ」とよく話してたこともあり、一瞬考えましたが根性なく、あっさりと断念してしまいました。
その後、住むことはできなかったけど、いつか仕事でアメリカに行けないかなと思っていたところに、担当者さんからの質問です。
「海外でのブースやれる?アメリカなんだけど」。
勿論、経験はないですが思わず「やります!」と答えてしまったのです。

それからというもの、デザイナーさんと共に格闘の日々が始まりました。
マニュアルの翻訳から現地の業者探し、多くの人に協力してもらいなんとか準備を終え、デザイナーさんと二人でいざフライト。 2000年6月、現場はラスベガスでした。
現地の業者さんは日本人の方で、ロサンゼルスで会社を経営。電話とFAXでやりとりをしてなんとか発注しましたが、 かなりの不安を抱えての渡航でした。
しかし、飛行機に乗ったとたん、テンションがあがり不安も吹き飛び、 「初ベガスだ!」の勢いでラスベガス、マッカラン空港に到着。空港を出た瞬間の熱風は今でも忘れません。
摂氏40度以上の熱風に包まれ「ベガス来たぜぇ!」と二人で叫んだのを未だに覚えています。
勢いは止まらずタクシーに乗りチェックインを済ませていざストリップへ(←ベガスメインストリートの名称)。
デザイナーさんが「やっぱアメリカにきたらステーキ食べないと」の言葉に速攻同意。
安そうなレストランに入り、メニューを見て速攻、「ニューヨークステーキ」をオーダー。
かなりのハイテンションで二人が待っていたところに、なんと大皿からはみ出した巨大な肉が「ドン」と置かれたのです。
食べても食べても減らない硬い肉。おまけにだれがこんなに食べるんだというくらいのマッシュポテト。
ハイテンションだった二人が、無言で食べた後、一気にお腹の具合が…。
以外とお腹の弱い二人は観光どころかホテルで横になるしかないぐらいの状態になってしまいました。
夜に現地業者さんと初対面でしたが、会って速攻、和食をリクエスト。
居酒屋へ行き二人とも冷奴しか食べることができませんでした。トトホな話です。
その後の食事は悲惨でした。
とにかくお腹が減らない、食事に行っても水ばかり。味噌汁飲みたい、お茶漬け食べたい、そんなことばかりでした。
業者さんにベガスにあるラーメン屋「戸越ラーメン」に連れてってもらい、 醤油ラーメンと餃子を食べました。
こんなにうまいものだったのか!とあっという間に完食。
以来、ベガスに行くと必ず「戸越ラーメン」に行きます。
デザイナーさんが設営を終え早上がりで帰国、私は最終日の撤去まで残り3日、 食に関しては地獄のラスベガスだったことは言うまでもありません。
でも、帰国してすぐ吉野家の牛丼を食べました。
同じ肉でもえらい違い。そんな話…自分達がお腹を壊した話のみになってしまいましたね。

次回、壮絶なアメリカでの話しはまだまだ続きます。

展示会の仕事についた頃の話

今日も東京は曇り空ですね。

今回は私が勤めてきた展示会の仕事についての話です。
最初は展示会という場にほとんど行ったことがなく、縁のない世界でした。
しかし、多種にわたる業界の展示会が開催されてることを知り、自然と興味を抱くようになりました。

当時在籍していた広告代理店の先輩の現場がパシフィコ横浜で開催、光学系の展示会で「光ナノテクフェア」という展示会でした。
入社日の翌日、先輩から「明日、現場だから」と言われ、「いきなりかよ」と思いつつ会場のパシフィコ横浜に行きました。
11年前の私は、まずパシフィコ横浜という場所にも行ったことがなく、会場に入った瞬間、見たこともない光景が目の前に現れたのです。
それは、出展企業のブースが立ち並び、大工さん(←当時全員が大工さんに見えた)が脚立に乗って作業をしている光景でした。
それと同時に初めて感じる匂いです。
あとでわかりましたが、経師を貼る時に使う「のり」の匂いでした。
ゴミの溜まりをを飛び越えながら、先輩に言われたブースを必死に探してやっとの思いで到着です。
到着すると、職人さんが大勢で作業をしてて、なにか手伝わなければと思い、勇気を出して大工さんたずねるとベテラン風の大工さんは「その辺、ほうきで掃除しといて」と言い、 私はすかさず近くにあった竹ぼうきで必死にはきました。
今思うと、私が業界に入って初めて行った作業です。
必死ではき続けたいた私に職人さんが冷たく「もういいよ」といって休憩に行ってしまいました。
再度、戻ってきた職人さんに「他にやることはありますか?」と聞くと、またまた冷たく 「もうない」と言ってそれっきり相手にもされませんでした。

途方にくれた私は、すぐに会場を出て海沿いにある公園で「なんでそんな言い方しかできんのや」「えらい業界に入ってしまったな」と独り言を 延々と繰り返したのを覚えています。
でも悔しい。どうすればあの職人さんと話ができるだろう、 どうすればあの職人さんをギャフンと言わすことができるだろう、そんなことばかり考えました。
結果、「自分でお客さんを獲得して現場に来てやる」「いまに見てろよ」「絶対なめられないようにするぞ」…
今、振り返ると小さな動機でしたが、その後、ガムシャラに営業をし、上司、他部署の方に紹介してもらい、 職人さんも自ら探して出向き、小さな自分のブレーンを作ることができました。

当時の上司に「現場では不安そうな顔をするな」と言われたので、とにかく生意気に行こうと単純に思いました。
その裏では専門用語とか制作面など色々勉強もしましたが…。
当初は若気のいたりでぶっ飛ばしていましたが、素晴らしいお客さんと出会い、素晴らしいデザイナーさん、 職人さんに恵まれ、自分を理解してくれる上司、先輩がいてくれ、その人達の為に頑張ろうと言う気持ちで取り組むように なりました。
色々誤解をされたり、又、誤解をまねくようなことを言ったり、失敗の連続で悩んだ時期も多々ありましたが、 そんな周りの人達が支えてくれ、自分を育ててくれてるのだと思うようになりました。
その後は、自然とほうきではくことも楽しく、 経師を貼る「のり」の匂いもたまらなくいいなと思う自分になっていました。

今は経営者という立場で考え方も様々ですが、初心を忘れず、日々勉強、日々経験を積み重ねていきたいと思う今日この頃です。

プロレスラー、三沢光晴が亡くなった話

衝撃を受けました。
レスラーの試合中による事故死は過去にもありましたが、プロレス界を引っ張ってきた三沢がまさかの死。
しかも私の出身地である広島で。
広島県立体育館といえば、広島で開催されるプロレス興行では聖地です。
幼き頃からのプロレスファンとしてはショックでした。二代目タイガーマスクがリング上で自らマスクを脱ぎ、三沢光晴として戦ったシーンを今でも覚えています。
そして、三沢の意思を次いで、広島から翌日の福岡で試合を行った「ノア」の皆さんにも感動しました。
三沢にバックドロップをかけた選手を決して責めることはできませんね。
音楽界の忌野清志郎の死から1ヶ月、また、プロレス界の大物レスラーが亡くなるという…
清志郎の曲を聞いて涙し、そして三沢の入場曲を思い出し、つらい日が続くものです。
心からご冥福をお祈りします。

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