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E-talk

弊社近くにある広島お好み焼き店「凡」の話

今回は弊社のある四谷で長く広島お好み焼き「凡」を営んでおられるIさんの話です。
普段、私は「大将」と呼んでいます。大将は広島市の出身でプロのジャズミュージシャンでもあります。
お店でヘラを振ってる大将と、マイクを持って唄っている大将はそれぞれが魅力的です。
ライブでは勿論「ステージ」ですが、店でも同じ「ステージ」の雰囲気が伝わってきます。

私が四谷で開業して以来8年間、大変お世話になっています。
当初は弊社のF田が「近所にお好み焼き屋があるで」と言ってきたので、「どうせまずいんじゃない?」
と言った会話でした。「まぁ、近所だし行ってみるか」ということになり、半信半疑で行きました。

店内は多くのお客さんで賑わっており、「鉄板」は空いていない状態でテーブルに通されました。
広島人の多くは「鉄板」で食べるのが主流で、私も幼き頃からおばちゃんが一人でやってる近所の 行きつけのお店があり、
「おばちゃん、いつもの」と頼むと、広島ではベーシックなお好み焼きのそば入り、 いわゆる「肉玉そば」が出てきます。
そしていつも「鉄板」で食べていました。生意気なガキですね。

それだけに、「なんだ、鉄板じゃないのか」とがっかり。
しかし、あきらめられず生意気調で、「鉄板が空いたら席を移動していいっすか?」と大将に言うと「ええよ」と愛想の無い返事でした。
時間が経ち、カウンターが空くとすぐさま移動。
会話も無くじーっと焼く姿を見ながら、 「繊細で丁寧な作り方・・・これは他の店と違う」と感じました。
二人共、無言であっという間に 食べ終わった瞬間、大将に「すいませんでした!」と思わず謝りました。
上京して長くなりますが、満足のいくお好み焼き屋さんと出会うことが少なかった私達は、
「どうせ」 という思い込みが間違いなくあり、疑いの頭で食べに来たことに対し、謝りの言葉が出てしまったのです。

大将は笑顔で「うまいじゃろう」と言って、後は世間話になりました。
広島のことや弊社のこと、 色々な話をしてお店を出た瞬間、「気分ええのう!」と弊社F田と二人で四谷駅まで歩いたのを鮮明に覚えています。
以来、大将と奥さん(おかあさんと呼ばしてもらってます)には我息子のごとく大変お世話になっています。

気分がよかったのは、味は勿論ですが、大将とおかあさんの人柄がいいからそう思うのです。
頑固な店主がいて、話もろくにできないお店もありますが、「うまい」だけでは本当の意味で気分よくは なりません。
味を提供している人に「人間味」がなかったらその料理はおいしくないでしょう。生意気ですが・・・。
お二人はそれを大切に思いながら頑張っておられます。

今では、人生の大先輩として色々なことを教えてもらったり、また、私達のことを応援してくれています。
私としては東京のおやじ、おふくろのような存在です。


■広島お好み焼き「凡」の紹介
東京都新宿区三栄町8-33芝田ビルB1F tel.03-3357-9129
JR中央・総武線 東京メトロ 四谷駅から徒歩5分
※お好み焼き以外のサイドメニューも充実しています。
トンペイ焼き、やまいも焼き、豚もやし・・・どれもうまい!

アメリカで起こった出来事の話(番外編その3)

アメリカで一眼レフカメラを無くした話の続編です。

巨漢で強面の運転手さんの言葉を信じて、ダウンタウン(都心部)に向かった先輩のAさんと私は、 疲労、寝不足を忘れたかのように、ハイテンションで警察署を目指しました。

到着した場所は、いかにも公共機関が入っているようなビルで明かりも灯っています。
「よし、警察署だ!Thank you!」と運転手さんにお金を払い、意気揚々と駆け足で向かうと、 なんだかしょんぼりしたおばさんと少年が廊下のベンチに座っています。
「なにかやったのかぁ」とか思いながら、中に入ったAさんを待っていました。
数分後、なにやらAさんは浮かない顔をして 出てきました。
「どうでした?」と聞くと、Aさんは「ここ裁判所だって…」はぁーーー!?

2度目の愕然です。なんで警察署が閉まってて裁判所が開いてるんだ?どうなってるんだこの国は。
24時間体制で裁判?すると、廊下に座ってた親子らしき二人は裁判待ち?と…ボヤキたらたらで ビルを出ました。
Aさんと「どうする?こんな夜中にタクシーもいないよ」と歩いてると、 なんと!さっき乗ってきたタクシーが待っててくれたんです。
「いい人だぁ」と巨漢で強面ですが、 「裁判所だったよ!」と説明すると、何やら無線で話し始めました。
すると、「ホテルに戻ろう」と言い 車を走らせました。紛失したホテルのセキュリティーサービス、いわゆるカジノを警備してる組織に 掛け合えば証明書をもらえる可能性があるみたいなことを言うのです。(※後で知りましたが、ラスベガスでは 警察より、カジノのセキュリティー/警備組織のほうが権力が上みたいなことらしいです)

これはもう可能性に賭けるしかないと思い、運転手さんを信じホテルに戻りました。
到着すると運転手さんは「カモン!」と私達に言いホテルに入って行きました。
すると、公衆電話で誰かと話はじめ、終わるとまた「ついて来い!」とホテルに入っていきました。
Aさんと二人で「この運転手さんは私達の為になんとかしてくれてるんだ」と話ながら早歩きで ホテル内を進む運転手さんを駆け足で追いかけました。

巨大なホテル内のカジノを通り抜けながら、運転手さんの背中を追いながら、組織の部屋らしき場所に着き、 必死で事情を一人の若い担当者に説明してくれています。
A先輩も決死の英会話で説明してくれたり、 ヒヤリングしてくれたりで、自分の失態の為にこんなにしてくれて、しかも運転手さんはタクシーの仕事を 放り投げてまでもやってくれてる姿を見て、申し訳ない気持ちと、「これ、ちょっとしたドラマだな」とか のん気なことを思いながら、涙が出そうになりました。
若い担当者が、「ここで待っててくれ」と言って 部屋の中に入っていきました。
運転手さんも「オッケー、なんとかなる」みたいなことを言ってくれて、 私達は少しホッとしながら待っていました。

時間は深夜3時を過ぎていました。ホテル内は深夜を思わせないほどの賑わいで、スロットマシンの音、 プレーヤーが喜ぶ声、そんなラスベガスのカジノでこんな展開になるとは…と思いながら待つこと数十分、 担当者が出てきました。
「分かった。証明書を発行する」と言ってくれたのです。よし!やった!3人で喜びました。
終わったぁ!ありがとう!みんなでハイタッチ…これで日本に帰れるぞ!…ところが…

3度目の愕然です。喜んでいたところに担当者が「2,3日後に取りに来てくれ」みたいなことを言うのです。
「いや、いや、いや、これから数時間後に日本に帰るんだ。すぐにほしい。たのみます…」
さすがにその時は、運転手さん、A先輩、私の3人共が大声を出し、お願いし倒しました。
すると、担当者は再度部屋に入り、また待ちの状態に。この時はA先輩も私も疲労が隠せず、 ウトウトしてました。立ったまま寝たのはこの時以外ありません。
数分後、明らかに上司風の人、いやボス風の人が出てきて、運転手さんが「彼らはすぐに日本に帰るんだ」と 説明すると、ボスは「わかった。特別に今すぐ発行しましょう!」と言ってくれたのです。
もう、やった!というより、その場にヘナヘナと倒れこむような状況でした。

運転手さんになんとお礼していいか、しかし、ポケットにはなけなしの$50しかない。
運転手さんに「いくらですか?」と聞くと「いらない」と言って運転席に乗り込みました。
「待って」とポケットに入っていた$50を渡すと笑顔で「サンキュー!」と言って去っていきました。
去っていくタクシーを見ながら、日本語で「ありがとう」と言いながら頭を深々と下げるしかありませんでした。
私の母親にこの話をすると、「なんで住所聞かなかったんや!」と怒鳴られました。その通りだと後悔しています。
恩返しのしようがない運転手さん。まだラスベガスでタクシーに乗ってるんでしょうか。
その後、ラスベガスに行った際、タクシーに乗ると必ず運転手さんの顔を見て探すくせがついています。
なんとか会ってお礼がしたい。不可能に近いでしょうが忘れられない運転手さんです。
そして、A先輩にも感謝、感謝です。「いい経験になった」と言ってくれ、器の大きい人だなと思いました。

そのまま徹夜で飛行機に乗り、ラスベガスを離れ、1度目の食事を済ませ、眠りにつき、 目覚めた時には成田空港への着陸態勢に入っていました。
11時間のフライト…どんだけの爆睡? アメリカと日本はこんなに近いのかと。まさに夢のような出来事でした。

そして帰国後、無事に保険が下りたことは言うまでもありません。

アメリカで起こった出来事の話(番外編その2)

今日は皆既日食の日…あいにくの天気でしたね。飛行機から見るのが一番いいのでは?と思うのは私だけでしょうか。
それにしても神秘的な現象ですね。
東京都内では殆ど変化が無いように見えましたが、皆さんはどうだったでしょうか。

今回もアメリカで起こった出来事、その番外編です。
これだけはどうしても話たい…そんな出来事した。

ロザンゼルスに滞在し、その後、ラスベガスで当時勤務していた会社のA先輩と合流予定。
A先輩はバックパッカーでサンフランシスコを一人で観光してからの合流でした。
2001年、同時多発テロの2週間後でしたから、当然、セキュリティーも最高レベルでした。
日本からの飛行機もガラガラ。かなりの恐怖を感じましたね。そりゃ、こんな時に行く人は少ないですよね。
ロサンゼルス空港に到着したまでは良かったんですが、直後に到着ゲートがシャットアウトされ、 空港の外に出られなくなりました。
その間、何の説明も無くただ待つこと2時間、ようやく出ることができました。
後で聞くと、発砲があって空港の出入りもストップ。外からは入れなくなり、中からは出られなくなりと…
さずがにビビリましたね。
そんなこともあり、A先輩と無事ラスベガスで会えるのかどうか心配でした。
待ち合わせ場所のホテルに約束の時間通りに着くと、A先輩の姿は無く30分経っても来ません。
これは?と思い電話で運行状況を問い合わせてみると、A先輩の乗った便が遅れてるとの説明。待つしかない。
普段だとよくある遅れですが、テロの後だけに色んなことを思いました。1時間以上待ちましたか。
A先輩の姿を見たときにはホッとしました。何気ないことが、この時は敏感になっていたんですね。
いつも会社で顔を合わせてる人なのに握手したりして。いや〜、しかし長く感じた待ち時間でした。

しかし、壮絶な話はここからです。
ラスベガス最終日の夜、トレジャーアイランドというホテルでショーを見た後、食事に行こうと、 カジノのスロットマシンに座ってガイドブックを見てたんです。
「やっぱり和食がいいね、よし!戸越ラーメンに行こう!(前に話したラーメン屋さん)」という話になり連絡すると誰も出ない。
あきらめてダウンタウン(都心部)に行き、まずい照り焼きチキンを食べて帰ろうとした時でした。
「アッ!カメラがない…」。そうなんです。一眼レフのカメラが無いことに気づいたんです。しかも会社の…。
どこで無くしたか、どこに置いたかを振り返ると1つ心あたりが…。
スロットマシンに座って食事する場所を 探していた際、常に肩にかけ離さずにいたカメラを、ガイドブックをかばんから取るために、 自分の座ったマシンの隣のマシンに置いたのを思い出したんです。
これしかない!と思った瞬間タクシーに乗り、 ダウンタウンからストリップ(ラスベガス、メインストリートの名称)まで戻りました。 ホテル内のカジノに着いて、その場所に行きましたがありません。盗まれたか…。
いや、いい人が届けてくれてる。とか…。とりあえずホテルに帰り作戦会議です。
保険会社に電話すると盗難、紛失した証明書があれば保険が下りるとのことでした。
やばい…会社のものだし…これは切り替えて保険でなんとかするしかないと思いました。
「よし、交番に聞いてみよう」と日本ではそうなるんですが、 交番なんてありません。
とりあえず、ラスベガスにある警察に行こうとタクシーに乗り運転手さんに事情を話したんです。
A先輩が決死の英会話で。巨漢の運転手さんは理解してくれて、警察署に着いた瞬間、目を疑いました。
確かにパトカーが止まっていて明らかに警察署なんですが、なんと真っ暗なんです。閉まってるんですよ。
日本でいう交番ではなく、所轄クラスの警察署ですよ。それが閉店?愕然としました。深夜零時前後だったと思います。
日本では考えられないですよね。
ラスベガスではパトカーでの巡回がメインだということらしい、いや、しかし…??
と、途方に暮れていたA先輩と私に、運転手さんが「ダウンタウン(都心部)に行けばある」と言うのです。
その瞬間、「レッゴー!レッツトライ!」とか、ハイテンションで言ったのを覚えています。
これにかけるしかない。ここで証明書を発行してもらうしかない、でないと明日の早朝の便で帰国する。
フライトまで残された時間は約6時間しかありませんでした。

これも長編なんですよ〜。
次回、後編につづく…にします。

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アメリカで起こった出来事の話(番外編その1)

アメリカ出張では色々なことがありました。その番外編です。
今回は「移動」が大変だったという話をしましょう。

最近ではレンタカーを借りて、自分でも移動するようになりましたが、当初はどこに行くのでも 業者さんの車に乗って移動していました。
田舎町、アナハイムではビールを買いに行くのに、 1時間以上歩いたこともありました。
会場から離れたホテルに泊まることが多かったので、 何もないところで結構不便なんです。安いホテルだとジュースくらいしか売ってなくて。
フロリダでは、時差ボケで目が覚め、早朝4時から散歩したり、かなり離れたコンビニまで歩いて 朝食の材料を買いに行ったり。 朝、気持ちいい青空の下の散歩なのに、なんだか孤独を感じました。
日本は今何時だろう…とか。ラスベガスや大都市と違い、フロリダやアナハイムの田舎町では苦労しましたね。
そんな田舎でなぜ展示会が…と思うでしょう。それはフロリダもアナハイムもディズニーワールドがあるからです。
向こうでは、展示会と遊びをセットにして、家族で会場にくる人が多いんです。

空港でも色々なことがありました。
2001年6月、ラスベガス開催の3ヶ月後に、同時多発テロ。
翌年2002年もラスベガスだったんですが、 テロのあとで警戒レベルも高かった。
この年は日韓W杯の年でしたよね。
今でこそアメリカのサッカーは強いですが、当時のアメリカはほとんどといっていいほどテレビ中継がなく、ちょうど予選中で 日本が盛り上がっている最中、バスケで盛り上がっている国にきて、取り残された気分になったのを 覚えています。(←でも日本戦は全て見ました)
その翌年、2003年にイラク戦争が勃発。
この年がフロリダ開催。経由地、ニューヨークの空港ではマシンガンを持った 兵隊が警備しており、税関の列に並んでいるところにマシンガンの先で背中を突かれて、別室に連れて行かれ、 カバンの中を全部調べられました。
問題なく解放されましたが、スーツケースの鍵を壊され、ガムテープで ぐるぐる巻きにされ、結局壊されっぱなし。
翌年、2004年のアトランタ開催では、空港で発砲事件が勃発。
警戒レベルが最高になった時に到着した私は、普段通さないセキュリティーチェックを受けそのまま荷物が行方不明に。
普通なら到着便ごとに分けられますが、「Baggage claim/手荷物受取所」が大パニック状態。巨大なスペースを 約2時間かけてようやく見つけました。
空港で施工会社の方達と待ち合わせでしたが、業者さんの荷物も紛失し、 結局、アトランタに到着して空港を出られたのが3時間後でした。こういうのは当たり前なんですかねぇ。
前回、少し話しましたが、2度目のフロリダの年で、日本からの便が送れて経由地のワシントンに到着したんですが、 税関が大渋滞でやっと次の番になった時、前の中国人らしき男性が揉めていて、私の前でストップ。
結局、2、30分押し問答の末、連行されました。
ダッシュで荷物をピックアップし、ダッシュで国内線ターミナルの チェックインカウンターに到着した時にはすでに遅し。
これがまた空港が広い!事情説明をしたんですが5分差でアウトです。
次の便も、その次の便も満席で、5時間後にやっとワシントンを飛んだという…。
日本から乗った飛行機が 全日空のポケモンジェットだったんですが、ちょうど空港内の移動トレインに乗っていた時に、役目を終えてドックに入っていく 姿を見て一人でブツブツに文句を言ってました。
「ピカチューじゃねーよ!」とか。5時間、空港内のバーで飲みまくって、 気持ちよくなって、同じ乗り遅れたおばちゃんグループとベラベラと世間話。酔うと調子よく英語が出ますね。
やっとの思いで搭乗し、自分の席に行くと真ん中の席で、しかも両サイドにはプロレスラー級の太った男性が。そういうオチか…。
結局、東京の家を出てフロリダ、オーランド空港に着いたのが丸1日、24時間かかったという…フロリダは遠すぎです!
でも、南米はもっと遠いんでしょうね。
長時間のフライトはそんなに苦ではないですが、さずがにこの時は疲れました。

移動…。なにがなんでも現場(会場)に行かなければ…。
その一心でたどり着いた時には苦労も吹き飛びホッとする瞬間です。
でも、もっと大変な経験をされる方がいるんでしょうね。
私なんて笑い話程度でしょう。

アメリカでの仕事の話(その4)

東京、梅雨明けしましたね!皆さんの地域ではどうですか?今日は一気に夏が来たぁ!という感じです。
「かき」のイベント中でアメリカでの仕事の話が止まってましたね。これではいけまん。
続編をお話しましょう。もう飽きましたかね?いや、まだ話しますよ。

前回は、アメリカと日本の違いを話しましたが…そうそう、出会いがあったんですよ。
始めは日本人の業者さんで、アメリカで長く経営されている社長さんとのやり取りでした。
その人との感覚の違いを話しましたが、その会社に入社してきたT君と出会ったんですよ。

T君は埼玉県に在住していましたが、なんとグリーンカード(アメリカの外国人永住権)が初回の応募で 当選したんですよ。
なかなか当たらないものですよね。
せっかくなんでとアメリカに住まいを構え、 日本人が経営するこのディスプレイ会社に入社したとの運び。そこでT君と出会いました。
最初は無口でおとなしい感じでしたが、アトランタの現場で初日開催のオープンを終え、コーヒーを 飲みに行った時に色々と話をしました。
すると、さすがにアメリカに来たばかりで、日本魂バリバリの 熱い奴なんです。
アメリカに来てからの悩みや、仕事に対しての話など、ほんといい時間でしたね。
ホテルの部屋で葉巻を吸ったり。
二人で「似合わねー」とかいいながら。懐かしいです。

それからはT君とのやり取りが多くなり、仕事もやり易くなっていきました。仕事の「腕」抜群です。
お客さんにも喜んでいただき、みんなで食事に行ったり、買出しに行ったりと雰囲気もよくなっていきました。
なにより、私が指示しなくても進んでやってくれる気持ちが一番嬉しいことでした。

アナハイムでの現場では、ロザンゼルスにあるT君の自宅に泊めてもらい、自宅の協同スペースにある プールで涼んだり、ジャグジーでビールを飲んだりと楽しい時間を過ごさせてもらいました。
なんだかT君とは波長が合うんですよね。
一緒にいて楽というか、気を使わないというか。

その後、T君が独立して直接仕事を依頼するようになり、楽しいアメリカでの仕事をすることができました。
結果、お客さんにもいい対応ができ、「渾身の出来ですね」と言われたのはT君のお陰だと思っています。
その国、地域に居ると人もその場に馴染んでいくのは仕方ないと思います。
しかし、本質はどこにいても変わらず持ち続けたいものです。
T君は変わらず日本魂を持ってくれています。いつまでも付き合っていきたいアメリカの親友です。

展示会の仕組みが日本と違うという話をしましたが、今、思うにそれぞれのお国柄が違うのは当然で、 それぞれの業界でも違いは多いにありますよね。
「アメリカで仕事がしたい」という憧れに近い 思いとは反面、厳しい現実を味わうほうが多かったような気がします。
しかし、決して嫌だとか やりたくないとかそういうことではなくて、むしろ遠く離れたアメリカから日本を見れたわけだし、 アメリカの凄さ、大きさも感じることができ、素晴らしい出会いがあった。
この10年近くの間に、素晴らしい経験ができたと思っています。

次回はアメリカで起こった出来事、番外編をお話します。ドラマチックな出来事が…。

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